ワーホリ

就活頑張るぞ〜の日記

TOEICの結果が出た。750点だった。決して自慢はできないがまあ悪くはないのではないか。これが就活に生かせるかと問われれば少し微妙かもしれない。しかし一年いった程度でまあまあ伸びるものだな。行く前は450点だった。

さて就職をしなければならない。ワーホリ中はそれなりになんとでも生きていけようという気分で、今もそれなりになんとでも生きていけるとは思うのだが気持ちが少し重くなってきた。今後私は健康に働けるのだろうかとか、いつ出産するのだろうとか、最終的にどこに住もうかとか。それに仕事と言われるとオフィスのプラスチックの匂いだとか工場の情景が蘇ってくる。あの時に感じた、日々をやり過ごすばかりの生活の陰鬱とした感情に心が囚われる。しかしここで踏みとどまらないといけない。人間は印象や感情に騙されやすい。騙されやすいんだぞ!

冷静に自分のできることを洗い出す。希望を洗い出す。どんな業種にするか、どんな人生を理想とするか。着実な一歩を。1回目の就職はなんの努力も分析もせずただ企業説明会に参加しポンと合格をもらった。それは働く上での心構えに大きく影響しただろう。次の就活は私が出来る手を尽くしたい。納得感が大切だ。

最近、自分がいわゆる「何者か」になれないということについてなんだかものすごく腑に落ちた。昔おばあちゃんに「毎日労働して、普通に生きて死んで行くのが嫌だ」と漏らしたことがある。「生活とはそういうものでしょう」と、なんでもないように言い切った私のおばあちゃんは本当に偉い人だと思う。出来ることをコツコツとやって行く。

 

 

現時点で思う幸福

お気に入りの音楽が見つかって気分がいい。私の脳、こんなに簡単に気分が変えられちゃって、バカみたいだ。でもバカな脳だから今まで生きてこれたんだと思う。感謝。

自分が死ぬまでは生きている。そしてある程度ではあるが自分で変えられるのはどうも自分だけらしい。それだけが確かなんだよな。だから大事なのはよく寝て、よく食べて、なるべく健康にしておくこと。私は健康が好きだから。

自分がどう生きるかというのは自分が好きなようにすればいい。でも私の存在が他の事物との関係との間にしか成り立たないのであれば、それらを大切にすることは自分を大切にするのと近いと思う。あまり変なことは言いたくないのだが、最近不思議に思うことがある。私たちは生物がいなかった地球にだんだん生物ができたり進化したりして今に至る。元はただの原子の粒だったのに、今私はこんなになっちゃって、あなたもあなたになっちゃって、でも私が私として意識があることとか、あなたがあなたとして意識があることって不思議じゃないですか?わかんない、なんかすごいですよね。実は私はあなたなのかもしれないと勘違いしそうになる。皮膚が境になるし、眼は他人を捉えるから自分と他人とは違うものなのだとつい捉えてしまうが。

自分がやりたいことならできる。できるというのは実行に移すというレベルでのできる。私がワーホリに行ったのだってやりたいからできた。やりたくない人にはできない。あなたがそれをやっているのはあなたがそれをやりたいと思ったからにすぎない。テレビでどんなにすごい人がいたって、その人がそれを続けているのははじめにそれをやりたいと思ったからに過ぎない。評価するべきはそれをやっていることそのものではなく、その人がそれをどのようにやったか、極めたかだけ。あとは自分の趣味嗜好による好き嫌いの判断が生じる。私はその人のやりたいことが他者に役立つところにつながれば好感を持つ。その人は私のやりたいことのある種協力者だ。自分のやりたいことをやって、それを極めて他者の役に立つようにする。そうやって生きたら私は私の人生に納得するような気がする。

自分の生に対して納得していれば幸せだ。

大げさな健康体

死を意識したのにもかかわらず、通いつめた病院で診断されたのは逆流性食道炎だった。喉と胸が圧迫されて、ものを飲み込むのが辛くて、呼吸がしにくくて、心臓がドキドキして、立ってるのもやっとだったのに。食道炎らしい。あ〜なんじゃそりゃ。

診断がつかない間家族に病歴を聞いた。祖父は3回、父は2回死にかけていた。結核とかガンとかで。祖父は医者に死の宣告をされたらしいが、別にショックでもなかったらしい。よく人が死んでたから。生きる事に期待も絶望もしていない。尊敬する。

死ぬときは死ぬし、死なないときは死なない。

 

病院に通っている

最近病院に通っている。通っているといっても何か特定の病気の治療のために通っているわけでは無い。治療すべき病気の発見のために通っている。症状はあるのだが原因が分からない。なんだかんだとひと月は経とうとしている。

私は割と健康な方だった。風邪はひくがその他は殆ど病気になった事はない。大きな病気になった人の気持ちは分からなかった。テレビや何かで耳にしても、大変だな、と月並みな感想を持つ程度。真剣に考えた事などなかった。しかし今原因不明の症状を抱え病院に通う立場になると、これがなかなか不安である。症状をGoogleで検索すると軒並み重病人のブログが出てくる上、最新の記事が「旅立ちました」であるとか2016年で更新がストップしているとなると本当に、誰にも頼れない寂しい気持ちになる。こんな世界があったのか。経験しなかった事は知ることが難しい。

病院から出てくる中年男性の持つ薬の束を見る。ああこの人も、何かを抱えているのだなと思う。よくよく考えたら世の中の多くの人が何かしらの病気になって、病院に通っているような気がしてくる。みんな私の知らないところで闘っているのか?自分の痛みは自分しか知ることができない。

私はまあ、通うしかないからこの先も通う。いい医者に当たりたいが、いい医者に当たるなんてどうしたらいいのかも分からない。病院を変えて違う先生に診てもらうのも、一体その病院の医者が良いのかも分からないし、判断基準も分からない。人当たりが良い医者が病気をよく診れる医者とも言えない。ある程度で諦めるしかない。当たりハズレが分かりにくいガチャを引くのは躊躇われる。

 

わからんよ

外国人の友達が日本に来たのでひと月ほど国内旅行をして来た。知らなかったのだが各地に無料のキャンプサイトがあり、飲み水もカマドもトイレも、確保が簡単だった。そしてある程度の大きさのスーパーに行けば必ずと言って良いほど無料の氷が手に入る。これも重宝した。感謝。

普段と違う行動をすると普段と違う人と出会える。生まれてこのかた日本でキャンプなぞしたことがなかったのだが、キャンプする人って少なくないんですね。中には半年間滞在を続けている人もいた。それから80代の男性を何人も見た。ワンボックスカーを改造してベッドを乗せた車で旅をしていた。各地の温泉を渡り歩いていたがこの辺りは近くに無料の良い温泉があるので長期滞在しているという。さらには周辺でキノコを採取する話やニジマス釣りの話を聞かせてもらった。楽しそうな生活だった。こんなに縛られない人生があるか。

私が、いわゆる普通の生活というものを想像するとき、就職、結婚、出産、そして子供が無事に巣立つまでの様子をイメージする。定型で、自由がない。そしてそれは窮屈そうな印象を伴う。疲れた大人の顔、愚痴、ワイドショー。そんなものには参加したくないと思う。しかしその認識は正しくない。実際は全てが自由で、選んでも選ばなくても良い上に、楽しい就職、楽しい結婚、楽しい子育てにもなり得るのでしょう。全てがカスタマイズ可能で、即興で乗り越えていく日々は窮屈なのか?

大人としての責任を果たすというような考え方がある。責任とはなんだろう?日本国民である以上、納税と勤労に関してはした方がいいと言えるが、それ以外のことは???なんだよな。個人の考えとしては、日本を維持するために子供を産んだ方がいい。子供が少なくては国が栄えない。国が傾いた時に割りを食うのは今の世代ではなく未来の人間たちだと思う。いろんなことが国のためとか人間は社会的な生き物だとかっていうことでよく説明できるんだけど、そういうデカイ話を持ち出すといろんなことが怠くなる。家庭とか出産とかだるい、窮屈だ。昔の人間たちのことを考えるとわたしの集団への貢献度が低すぎて頭が上がらない。昔の人は暇じゃなかったからこういうことを考えなかったのかな?それとも同じように考えていたのでしょうか。

一歩引いてなんの責任も考えず、誰のためでもなく自分のためだけを考えてみると、いろんなことが面白そうだと感じる。だからそういう感じで気楽にやっていったらいいのかなと思った。足踏みで靴底を減らすのは勿体無いようにも感じるから。

 

ラブレター

同居中のカナダ人の思い出。

この農家に滞在し始めて間もない頃。とある休日、洗濯をしようとランドリーに行くと、彼女はランドリーの片付けをしていた。衝撃だった。私が考える私は働き者で、人より少し多めに働いてて、勤勉な日本人のはずだった。各国の若者たちの評判をあちこちから聞きかじっていた私は正直言って自分を高く、他人を低く見積もっていた。だけど目の前で、カナダから来てる年下の女の子が休みの日なのに働いている。しかもその動機が「ただホストのためにやりたいから」だと。これは、自分がかなりの働き者だという謎のプライドを持ちつつ、仕事だる〜と思いながらダラダラ働いていることをまじまじと観察させられる経験だった。その後も彼女は常に仕事を的確にテキパキとこなした。しかも同時に、どんどんとホストと仲良くなり、信頼関係を築いていた。英語を理解しない私にさえ理解できるほどに明らかだった。人間が出来ている。こうして私はそんなに働き者でもないし、仕事もトロいし、コミュニケーションにもはっきり言って難があるということがわかった。そんな私の動揺を知ることもなく、彼女は楽勝と言わんばかりにスイスイと進む。私にとって彼女は無理難題を楽々こなす超能力者だった。

彼女は18歳の頃から世界のあちこちを旅をしている。身なりはさほど気にしないがどこか品の良さを感じさせる振る舞いをする。でも呆れるほど奔放。エネルギッシュかつ老成している。親の仕事の都合で住んだヨーロッパで通っていた高校は辞めた。大学も通っていたが今は休学中で最早戻る気はない。彼女の心は自由だと感じる。彼女は彼女のルールに従って生きている。だけど誰もそれを知る由もない。ティーンエイジャーの頃から書き溜めている日記だけが彼女を知っている。18の頃から23の今日まで、彼女は一体何を考えて生きて来たのだろう。そういうことに興味を持たせる存在。

英語が話せない上に臆病者の私は、この農家に来てしばらくの間、彼女が毎朝言ってくれる「How are you?」にもうまく答えられなかった。不愛想な上に何もアクションを起こせず、自分の存在価値を相手に示すこともできない。それでも少しでも興味を持って欲しかったのでとある朝意を決し「Good morning, sweet maple syrup!」と呼びかけた。毎日毎日飽きもせず無口、話しかけても話を聞き取ることすら出来ないアジア人に突然謎の呼びかけをされた彼女は、立ち止まり数秒空を見上げて考えた後、大きな口を開けて笑った。私の隣に座っていた他の同居人も笑っていた。どうやらうまくいったらしい。恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じた。嬉しい経験だった。その日からしばらくはその場にいた人たちは彼女をsweet maple syrupと呼んだ。

そんなスウィートメープルシロップはこれまで私にとって大きな窓になってくれた。そこから他の国の文化を眺めることができる偉大な窓。自分がどれだけ元いたコミュニティに影響されているかを再認識させてくれる。いつも通りの思考に疑問を持つことを促してくれる。数ヶ月共に暮らすことが出来たのは本当に幸運だったと思う。ついに彼女は明後日このファームを去る。今日一緒に見つづけていたStar Warsを最後まで見きった。初めの頃は一緒に映画を見れるなんて想像だにしなかったな。嬉しいな。もちろん彼女はみんなにめちゃくちゃナイスで、クソな私は独占欲などにより時々それにヘコむんだけど、まあ少なくともナイスのその要素は私の中に取り入れられるようにしたい。

ラブレター書いてる気分だ!ははは。

目新しい発見でもないですけど

実は今、前と同じガーリック農家に来ている。というか来てすでに1ヶ月半経過した。前回よりも英語が分かるので話についていくことができて楽しい。世界の解像度が上がった。一緒に働く人たちの性格も、以前考えていたのとは違っていたりして良くも悪くも新たな発見が沢山ある。今回はとある一人のカナダ人と一対一で話す機会が多い。長期間共に生活することでお互いに力が抜けた自然な状態で、手厚く扱ってもらったり、無下に扱われたりするのはなかなか面白いなと改めて思う。その人の行動によって生じる私の感情は、一定の視点からその人を見ることを許さない。何かしら新しい感情に出会うたびに、その人のことを少し違う人間として扱うようになる。

こいつ嫌な奴だな!と思ってもすぐに諦めない方がいいな〜と思った。面白いから。